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『自分はすごい』という呪縛を解いたら穏やかな平凡が待っていた話

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少なからず中高生までは、誰しも『自分はすごい』という根拠のない自信を持っていると思う。

誰に自慢する訳じゃないけど、自分は平均より上だと漠然に思っていたり。なにか特別なことを成し遂げる気がしたり。

そういったことって、たぶん特別なことじゃないよね。

皆がどこか思っていて、けれどどこかで平凡である自分にいつの日か気付く。いわゆる大人になる、ということなのかもしれない。

かくいう私も、自分がどこかすごいと漫然と思ってた。そのどれもが妄想で、『すごい自分』という空想自体が好きだったのかもしれない。

絵の上手い自分。個展を開いてる自分。人気な自分。それも、ひとたびペンをとれば大した絵を描くこともできない。そして、また妄想に浸っては『ない自分』に酔いしれてみたり。

自分に対する期待と過信、それに比例して膨らむ妄想と現実のギャップ。

たいして絵も描いていない癖に、才能溢れる作品を描く自分だけがそこにいる虚しさ。なんてものが、徐々にしぼみきって、ようやく残骸だけがおだやかに寿命を終えるように。

ある種の『天才』『才能』信仰に、いつしか私は染まっていて、不要な価値観の競争レースにひとり足掻いていたんだと思う。

それでも、ある意味でそれを、『青春』と呼ぶのかもしれない

自分自身が凡人だと気付くことは寂しい。自分は『ふつう』の平凡なんだと認めることは、とても虚しい。

けれども、『すごい自分』の夢から目覚めた先はただの終点ではなくむしろ『はじまり』だって気付いた。

完璧な自分という空想を抱いていたころは、些細なことにつまづくことが多かった。出来るハードルが高すぎて、やることなすこと『出来ない』だらけ。

できない自分とは裏腹に、コンプレックスのごとく虚像ばかりが膨れ上がって、そしてどんどん負のループにはまっていたりね。

でもある時、『自分は凡人なんだ』と悟ってからは背伸びをすることをやめた

出来なくてもいい、下手でもあたりまえ。『出来る自分』に固執することから降りた先は、平凡でおだやかな時間そのもの。

ありのままの自分と対面したときはじめて、本当の人生を見つめることが出来るのかもしれない。

結局は手持ちのカードで戦うしかない。透明なカードをいくら持ってても、それを使うことはできないように。

ただの凡人、でもそれに気づいた凡人はもっと強いと思う。透明なカードを何百枚と抱え込んで、それを手持ちだと勘違いしていたあの頃よりずっと。たった2枚でも、それを活かす選択の方がずっといい。

『凡人と開き直る』こと。これは、上達や今後の人生においてとても大事なポイントになると思う。

もしも、どこかで気づいていたのならいっそ開き直っちゃえばいいよ。そうしたら、もっとずっと楽しくなれる。そして、なにより出来ることが沢山増えてくる。

出来ることが増えたら自信がつくし、自信がつけば、挑戦も増える。そして結果、手持ちも増える。なんて、まぁ胡散臭い投資信託みたいな話をしちゃったけど。

『凡人』だと認める勇気は、これから先の人生を大きく変えるかもしれないってお話。

そして、最後に『凡人のギフト』について話していこうかな。

いわゆる秀才や実力のある元凡人と呼ばれる人たちは説明や教えることがうまい人が多い印象がある。

データというより私の感覚だけどね。コツコツと積み上げてきたからこそ、理論や基礎をしっかり言語化して伝えることがとても上手い。

もちろん、説明の上手い天才もいると思うけど『できない』ことが分からないゆえに結局感覚的な説明になる方が多い気がする。

だからある意味それは『凡人のギフト』だと私は思う。

特別なことが『大事』なんじゃなくて、普通も平凡も同じようにとても大切なもの。

『特別』にだけ価値がある、そんな思い込みを捨てることからが本当のはじまりであり第一歩。もしも、過去の私と同じような方がいたら少しだけありのままの自分を探してみてね。

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